カテゴリー「「日本古代歌謡の世界」ライナーノートから」の記事

CDブックから多忠麿先生の文章の抜粋。

2010年12月 5日 (日)

CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(5)

(続き)

•••また、できるだけ演奏現場に近い響きを求め、左右の対称音、臨場感、残響、木魂などにも気をくばった。私自身、監修および演奏者として、生涯のライフワークとして、心血をそそいで取りくんだつもりである。

ただ、物理的な問題として、私自身このような膨大な量の録音は長い演奏家活動の過去にも経験がないので、長期間(数年にわたった)の時間差による誤差がどうのような影響があるのかはっきりとわからなかった。もちろんテープは幾返も聞きなおしてみたがわたしの聴覚では差異は感じられなかった。しかし、機械的には誤差は認められた。

このことは、数年にわたったことで、演奏者自身の肉体的変化、気候、気温による変化、湿度による変化、それに録音機器のいちじるしい進歩化などので微妙にことなる物理的条件が生じてしまったようだ。このことに関しては、やむをえないことと思うが、監修者として深くお詫び申し上げる。 (続く)

            ー「日本古代歌謡の世界」総論 多忠麿

レコーディグという作業では、意外とこういったことは気にされない。

普通なら、数年前のレコーディングと最近収録したものが混在しても、なんの断りもいれない。なのに、先生はわざわざお詫びの言葉まで丁寧に入れられている。

初めて、御神楽という貴重なジャンルの音楽をCDというメディアで聴く人たちへの、良心的な気配りーー先生のお仕事は、いつも、そんな繊細さに満ちあふれていた。

御神楽は、「一夜」にして繰り広げられる厳かな儀式の音楽と舞だ。
それをCDのなかで「再現」することが先生の夢、だったのだと思う。
録音日に「数年の隔たり」という誤差があってはならない、とお考えだったのだろう。

加えて「東京楽所」のCDなのに、演奏者全員が、宮内庁式部職楽部現役の楽師(笛の芝祐靖先生をのぞいて)。

今思うと、先生は、もう2度と、あの「神々へのご奉仕の場」に、生きて戻れないことを無意識のうちに感じておられたのかもしれない。

このCDのなかに、おそらく「楽家」に生まれた人間としての血が、ぴりぴりと感応する場であったはずの、「宮中御神楽」を「永久に」とどめようとされたのではないか。

実は、ライナーノートには、録音年月日は「1994年 6月25日 6月26日 7月17日 7月25日」となっている。
「数年」ではなく、わずか1ヶ月で終わったかのように見える。
不思議に思われたかたも多いのではないかと思う。

100%確かなことではないが、このCDの前に、同じ日本コロムビアから「大和朝廷の秘歌」という1枚のCDが出ている。
このCDのレコーディングが1992年で、数曲「日本古代歌謡の世界」と重複していて、どうも音源は聴き比べてみるとこのCDから持ってきているようだ。

ここからは推測になるが、おそらく先生ご自身が、「録音年月日」をライナーに記すとしたら、この「1992年」のレコーディング日も入れられただろう。

ただ、先生は、1994年の12月に急逝され、確かその日かその翌日に「古代歌謡の世界」は完成、先生の枕元に届けられたそうだ。

先生ご自身が書かれた文章の校正までは、先生が全て終えられていると思う。

「録音日」など、事務的な事柄の記載・掲載に関しては、先生の目をすり抜けてしまったのではないか。。。

すべてに「完璧」、「最高」を求め続けた先生だったから。

ああ、またそれで思い出してしまった思い出がひとつあるけれど。。。長くなるので、後日。。。


2010年11月27日 (土)

CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(4)

(続き)

とくに、宮中の秘楽として、神楽歌の分野は「神聖にして侵すべからず」とタブー視されていた。この分野も今回、歌曲のみならずその様式までも収録できたことは一大快挙といえる。収録にあたって演奏者は、現代の超一流の技能をもった人のみにしぼった。
そして、音程、音色、音質にとくに気をくばり、その上で古代歌謡独特の無拍節の曲の姿と間を最重要視し、一字一句一音もゆるがせにせず、明確で格調の高い歌を追求した。

        −「日本古代歌謡の世界」ライナーノートから  「総論」(多忠麿)


このCDは東京楽所にしては珍しく、演奏者は全員、宮内庁式部職楽部の楽師の先生で固められている。
このCDは多先生の遺作ともいえるCD。
平成4年の12月だったか、翌平成5年の1月だったか、先生は手術を受けられた。
胃がんだった。
療養する間もなく、先生はご公務に復帰され、さらにこのCDの製作に取りかかられた。

多家は元々、御神楽を業とする家。

先生はがんの告知は受けていなかったものの、残された時間が少ないことを本能的に、ご存知だったのだろう。
「おとなしく療養」などという言葉は似合わない先生だった(ただ、そうしてくだされば、どれだけ周りの人間も、気が休まったことだろう!)。

このCDには、特に先生の厳しい面が現れているような気がする。
また、「宮中の秘楽」を収録したCDに民間からの演奏者をひとりもいれなかったことは、「楽家」の人間として生涯を生ききった、先生の強い矜持と誇りを感じる。

また、出演者の楽師の先生方への細やかな気配りと(いかにも忠麿先生らしい)、信頼感も感じられる。

あれだけ、いつも高い境地を目指しておられながら、「人に委ねることができる」人、だった。

「責任は全部、僕がとるから」

が、口癖のような先生だった。


2010年11月25日 (木)

CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(3)

(続き)

そこで我々のなすべきことは、現存する古代歌謡をできるだけ数多く、一流の奏者をそろえ、音楽性、芸術性を追求することにあると考えた。
曲数については、ほぼ満足した。

全曲とはいえないが、全体の十分の八を収録することができたのである。

とくに、神楽歌はほとんどの系統が収録できた。

東遊(あずまあそび)壱具(いちぐ)。
久米歌(くめうた)壱具。
大直日歌(おおなおびのうた)。
倭歌(やまとうた)。
明治以来録音の機会のなかった田歌(たうた)。
誄歌(るいか)全曲。

その他、催馬楽、朗詠と国風歌舞(くにぶりのうたまい)(日本古有の歌曲)以外の分野の歌曲も収録した。

−CD「古代歌謡の世界」 ライナーノートから 総論 多忠麿  (続く)・・・

このCDは4枚組だが、こうやって書き出してみても、演奏、そして録音の作業だけでも、どれだけ大変だったかが推察される。

わたし自身も東京楽所のCDのレコーディングには、参加したことがあるが、先生のOKが出ないと、それこそ何度でも、録り直しになった。
同じコロムビアから出ている、「源氏物語の音楽」のときは、確か、太皷の音が上手くいかず、何度も何度も録り直しになり、それでもその日は先生の満足がいくトラックが録れず、別の日に録音が持ち越されたように記憶している。

先生は、必ず、現場にたくさんの譜面を持ち込まれ、演奏は厳密にチェックされた。
息を飲むような緊張の演奏。
張りつめたなかで一曲終わり、いわゆる「金魚鉢」の向こうで忠麿先生のOKのサインが見えると、楽師の先生もわたしたちもほっとしたものだった。。。

また、先生の場合は録りっぱなしということはなく、その後の徹底した音響チェック、編集作業にもかなりの労力を割かれていた。

実は、この「録ったあと」の作業がどれだけ膨大か、ということを、わたしは自分のCDの製作で思い知ることになった。。。


2010年11月24日 (水)

CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(2)

 「総論」多忠麿(続き)・・・

・・・天皇家の祭祀音楽として、その重要性はもとより、日本人の心の音楽として、代々の朝廷はこれらの音楽を最高位に位置づけ、輸入された数々の外来音楽(*1)とは一線を画し、大切に取り扱ってきた。

それは「大歌所(おおうたどころ)」そして「曲所(きょくそ)」という国家機関を別にもうけ、日本の古有の音楽のみを所管させたことでもわかる。

外来音楽より一段と格上に位置づけ、宮中祭祀の秘楽として重要視したのである。

これらの音楽は、楽家(がっけ)(音楽を専門とする家)とよばれる人たちにより、宮中祭祀の中で秘めやかに歌い継がれ、口伝とよぶ伝承方法で代々相伝されてきた。

その数はおそらく百をこす数であっただろう。
しかし、その中の大半は長い歴史の伝承過程で埋没し廃絶した。
現在まで命脈を保ちつづけた数は、数分の一にすぎない。

時の流れの速度が早くなる一方の昨今、このままの状態をつづけていたら、せっかく先人たちが残していってくれた世界に誇れる日本最古の音楽的文化遺産も、ますますその数を減らすのではないかとの危機感におそわれた。

そこで現存するものを後世に残すための手段を考え、そして音源をCD化(*2)することにした。

*1 「数々の外来音楽」とは、現在の唐楽、高麗楽もふくまれる。
*2 「日本古代歌謡の世界」のこと。


CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(1)

総論 多忠麿

音楽の発生の源は、人間の声からであると言われている。
意思を通じ合うために声を作り出し、言語を生み出した人間は、やがてその声により美しさ優しさを知り、旋律という技巧を用いて音楽を生み出したのであろう。

古代日本の人々もまた、声から音楽を作り出していったにちがいないと私は考えている。

生きるということがむずかしかった時代に、古代日本人は現世の幸福と、明日からの希望を声に託して、神々との対話の場で祈りつづけ、となえつづけているうちに、自然と音楽となっていったのかもしれない。

そして幾世紀にもわたる長い試行錯誤の後に、言葉をえらび詩を作り、音の組み合わせを考えて節づけをし、より効果的音を出すために楽器を考案し、これらを組合わせることによって日本人の音楽を作り出したのであろう。

さらに、それらを日本人の美学により様式化し、日本人の心ともいうべき、神楽歌へと発展させていったと考えられる。

短絡的な憶測ではあるが、このようにして産まれたと思われる日本の古代音楽は、六世紀ごろに伝来した仏教における声明の付楽のように、神道には欠かせない祭祀音楽として、その地位を確立してゆく。とくに、神楽歌は長い間、宮中の奥深く秘し隠され、その存在を知る人はごく一部に限られていた。

このことはつい最近まで、千年以上もつづいていた。

*原文は、いわゆる「ベタ打ち」に近く、ほとんど改行はなし。
読みやすくするために、わたし自身の判断で改行をいれ、数回に分けてアップしたいと思います。