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2016年2月29日 (月)

国立劇場雅楽公演 雑感

これだけは、書いておきたいと思うので。

昨日、楽部の舞楽公演(於・国立劇場)を鑑賞してまいりました。

ものすごく違和感を感じたので。
振鉾の演出、というかプログラム上の扱いについて。
今回は長保楽と春鶯囀一具がメインのプログラムでした。

春鶯囀一具が舞楽で、国立で行われるのは、一体何十年ぶりのことなのでしょう。。。

とても期待して伺いました。

そして長保楽の破、急。

堂々たる演目ですから、振鉾の一、二節が最初にあるのは、まさに「ふさわしい」と思いました。三節があってもいいくらいの、かなり重めの演目です。

ところが、最初に出ていらしたのは笛と打物のメンバーだけ。。。。

楽人の席は「がらがら」です。

これには、本当にびっくりしました。

ここ数年、国立劇場に足を運んでいなかったのですが、最近の振鉾は、こんな扱いなのでしょうか?

明治神宮など、屋外の、神社仏閣での舞楽のご奉納を御存知のかたがたなら、お分かりかと思いますが、振鉾は特に、「舞」というよりは、宗教的な意味合いの強い、どちらかというと「所作」のようなもの。

よく言われているのが一節で天を清め、二節で地を清め、三節で祖先の霊に感謝を捧げる、ということです。

大きな鉾で、空間を清める(舞台も含め)、お祓いをしているようなイメージです。

当然、ご参列の皆様も、そして演奏者も、清められている、、、、と、これまでずっと思っていました。

また、今回、このような扱いになって、振鉾は、コンサートのプログラムの独立した「演目」扱いのものではない、と改めて実感しました。

振鉾があって、華やかに龍笛、高麗笛が鳴り響き、場の雰囲気が固まり、期待感が高まったところで、調子などが鳴り響き、「さあ、いよいよ、舞楽が始まる!」という感じです。

こういった型は、誰かが頭でひねくって作り出した演出ではなく、歴史が作った、素晴らしい「演出効果」だと思います。

クラシックのバレエの独立した「曲」のようなものとはまったく意味合いが異なります。

雅楽に長年関わっておられるかたがたはお分かりかと思いますが、いってみれば、「舞楽の前の調子が終った途端に、楽人が全員引っ込んで、また出てくる」ような、奇妙な印象でした。

例えば、お相撲で、四股を踏んだ力士が、さあ、これから取り組みに、、、と思ったら、そのまま引っ込んでしまった、、、みたいな、まったく、肩すかしの、奇妙な感覚。

明治神宮や、例えば東大寺、春日大社で舞楽を拝見していると、振鉾から本命の舞楽に移る流れは自然すぎるくらいに自然です。

曲であって、曲ではない。

ですが全体にとっては非常に重要な部分。。。

六人舞の大曲があって、楽部の限られた人数では配役などのこともあって、非常に難しかったのだとは思います。
左右も、右舞から始まりましたし。。。そこは致し方ないとしても。。。

やはり国立劇場ですから、もう少し、歴史的な意味合いも考えて、今後の演出も工夫してほしい、、、と思います。もしかしたら、歴史的に、こういった舞楽の作法がかつて存在したのかもしれませんが、「今」伝承されている型は違いますし!

もちろん、コンテンポラリー作品でしたら、また意味合いは別ですが。

がっかりさせないでください、国立劇場さん。。。。


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