自分の、方向性
もう、いろいろとやってみて、またやれる機会が得られて、また、支えてくださる人たちが現れて、感謝しつつも、立ち止まって、再確認です。
自分のやりたいこと、まだ2割ぐらいしか出せていないかな、というところ。
雅楽は、非常に最初のとっつきがよくない音楽です。
それで、「できるだけ、噛み砕いた形で」と「至近距離で聴ける環境」ということで、京都シリーズを始めました。
お客様を、育てていきたい、という気持ちもあります。
「鑑賞眼」ならぬ「鑑賞耳」でしょうか(笑)。
それを育てていきたい、と思うのです。。。
そして、それとは別に、笙を独奏楽器として育てていきたい、という想いがやはりあります![]()
多分、京都コンサートシリーズで1回、2回と鑑賞されてきた方々は、3回目で、やはり合奏になると完全に「壁紙」と化してしまう笙の演奏を感じられたことと思います。
笙は、雅楽の「普遍の絶対的原理」を司っている、とは思っています。
ただ、、、陵王を吹いても、青海波を吹いても、笙のソロですと、一般のかたには違いがわからないでしょう
多分、大ベテランでも篳篥、龍笛のかたでも。
如何に、「空気のように」さりげなく、でも繊細に篳篥や龍笛をサポートするか、が笙の使命。
笙は、楽曲の「個性」の部分には、ほとんど関わることができないんです。。。
例えば序吹きや於世吹の違い、管絃吹きと舞楽吹きの違いなどでの個性はありますが、同じ延八拍子の曲でしたら、笙だけ聴いていても、多分、どれがどの曲か、まったくわからないと思います。
以前からコンサートなどでお話してきていますが、雅楽器、そして笙は特に、「和楽器」のなかでも異色の存在です。
雅楽器は元々、海外から渡ってきた楽器です。
そして多分笙が一番、「原型」を残している楽器です。
篳篥も、龍笛も、おそらく楽器の形状はともかくとして、旋律などは平安時代に相当、「和風化」してきているはずです。
笙でメジャーコードなどを演奏すると「えーっ」と言われたりしますが、調子などでは、メジャーコード、普通に、頻繁に出てきますよ?
そんなこんなであらゆる可能性を感じつつ♪
4月13日のコンサート、どうぞよろしくお願いいたします。
固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)






















