3月11日
夜は東京文化会館で過ごしました。
まるで避難民のようで、心もとない一夜でした。
普段のあのロビーに、人があふれ、通路に横になって休む情景は、まるでニュースのなかの映像のようにも思えました。
一晩、電車が動かない、と知ったときは、さすがに(えーっ)と思いました。
「都心の足」は深夜にかかっても、なんとか復旧してくれると思ったのです。でも危険を考えるとそれもいたしかたないことだったのかと。
あちこちにテレビが置かれ、地震の警報が流れるたびに震え上がるような思いをしました。
東京文化会館のかたがたの指示や判断は非常に的確だったと思います。
夕方5時ぐらいから、どんどん人が膨れ上がってくるので(わたしも最初は、暖をとるためだけに入った)、まず小ホールを開放、子供づれのかたや年配のかたを優先して誘導していました。
ほどなくして大ホールも開放。
要所要所にはテレビが設置され、いつでも情報が確認できました。
加えて、新しい情報が入るたびに、柱に紙で掲示。列車の運行状況が一目でわかり、とても便利でした。
通信手段がない人間でも、情報の確認をすることができ、おそらくご高齢のかたで携帯を使わない人には、非常によかったのでは、と思います。
また、定期的に飲料水のサービス。
レストランのウェイトレスさん、ボーイさんでしょうか、紙コップに水をいれて、配ってくださるのです。
どれだけ気持ちが和んだことでしょう。もちろん、自由に水がいただけるスペースもありました。
ああ~、今、思い出せば思い出すほどに、なんてありがたい待遇だったのでしょう。
女性も男性も一夜明けても、疲れも見せず、テキパキと働かれていて、不安な一夜も、そのおかげでだいぶ落ち着いて過ごすことができました。
都内、もう少し、災害の際の指示やら誘導があるかと思っていましたが、何もありませんでした。
いつも、「防災訓練」のときに鳴りだす放送もまったく鳴りませんでした。
警察や自衛隊などが巡回して安否の確認など、あるかと思いましたがそれもなく。。。
今回の地震は、「まだまだシュミレーション」、というはなしもあります。
もっと大きな災害が来る可能性は、公平に考えれば、いつでもあり得るわけです。
それにまだまだ、余震もあって、原子力発電所の危機も回避されていません。。。
自分の身は自分の勘と力で守らねば、と思います。
ロビーの椅子で、隣り合わせた女性と御親戚の方々とお友達になり、一緒に夜を過ごすことができました。
どれだけ精神的に助けられたか、わかりません(明るい方々でした!)
一番驚いたのは、ここで妹に出会ったことです。
妹は六本木から大手町へ移動中、地下鉄のなかで地震に遭遇。
その後、丸ビルに避難したそうですが、なんとここは全員、夜8時で「出された」そうです。察するに、貸しビルで、「統括者」がいないのが原因かと思いますが。。。
妹はたまたま、ラジオを携帯していたので、東京文化会館が「避難所」として開放されていることを知り、動き始めた地下鉄を使ってここにたどり着いたのでした。
わたしは最初、日暮里に移動、徒歩で柏まで歩くつもりでしたが、ふっと、(行くなら、南に行こう)と思ったのです。今、思うと、あのまま日暮里駅にいたら、どうなっていたことか、と思います。
翌日も電車はなかなか普及せず、上野から町屋まで歩きました。
こういうときは徒歩のほうが早く、判断は正解だったようです。動き出したものの、再度運休していた千代田線がちょうど到着、さらに北千住までの運転だったのが、突然、我孫子までの輸送に変更(この放送があったとき、社内では歓声が!)
長い長い日、でした。
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