国立劇場 散吟打毬楽 (2)
コンサート、演奏会評はあまり書かないようにしようと思っているのですが、今回は本当に、すばらしくて感動したので。。。
芝先生の復曲は、自在に雅楽の「語法」を使い分けながら、声明との兼ね合いも練られていて、「是非、もう一度、聴いてみたい」と思わせるものでした。復曲って・・・実は、わたしは1度聴いたら、(もういいかな)と思うことも多く(^-^;
好みの問題、理解度の問題?もあるかもしれません。
「学術的」には貴重でおもしろいとしても、「音楽的」な楽しさがないと、、、という人間です(^-^;
今回は、
楽と声明の掛け合いのようなものがとても緻密に組まれていて、「雲の上を漂っていて、ふっと雲が途切れ、海面が見え、また雲が延々と続いていく・・・」ような気がしました。
打ち物。
これがまたすばらしかった。
太鼓は1部と2部で、打つ雰囲気を変えていらっしゃったように思います。これも、もう本当に、ベテランにしかできないこと、です。
鞨鼓も鉦鼓も、全体の構成(1曲の構成、1部、2部の構成、そして全体の構成)を活かしながら、決して合奏全体を統率しようという強引さを出さずに、自然に自然にリードしていくような流れで、ほっとしました。ほどよい緊張感を保ちながら。。。
全体の安定感は、それぞれの奏者の力量の高さ、経験の深さによるものですが、笙の安定感。。。これがとても大きかったのでは、と思います。
笙は、「陰の立役者」のようになるのが、一番すばらしいと思っていますが、今回はそのような雰囲気の笙だったと思います。まったくわたしのようなものが書くのおこがましいのですが、久々に、笙らしい笙、本当の笙を聴かせていただけたように感じ、心がとても潤っています。ただ、その笙を活かしたのも、もちろん篳篥、笛あってのこと(笑)。
雅楽のこういった相互作用,有機的な関係性は、本当におもしろいです。
舞台美術。
品がよかったのはもちろんですが、もしかしたら、昨年の東大の修二会などの国立劇場公演でのご経験なども、活かされているのでは・・・?と思ったのは考えすぎでしょうか?
単に「お堂内を再現する」だけでなく、舞台としての有利性も考慮された演出で、仏教的な空間に心を遊ばせることができました。
また、これだけ、ある意味、とても「専門性が高く」「マニアック」な内容の公演をしっかり鑑賞しようという客層も育った、ということでしょう。
よい公演でも、聴く人がいなければ、お話になりません。また、いっとき、客層が落ち着かない時代もあったように思いますが、今回はそういったこともありませんでした(もちろん、いつの時代も、眠ってしまう人・・・はいらっしゃいますけれどね、笑)。
経験豊かな演奏者と、
雅楽の語法が存分に活かされた復曲と
センスのよい舞台美術と
それを「じっくり聴こう」、という観客層。
それぞれがこの時代に入り、成熟してきて、今回の公演が実現したということでしょう。
わたしたちは、雅楽の歴史のなかでも、とても恵まれた時代を、今、体験しているのかもしれません。それは、先代からのたくさんの楽師の先生方、雅楽を愛してこられたかたがたの想いとご尽力、長い長い、伝承の鎖があってのことです。
・・・と、いろいろと書いてきたのは、やはり、国立劇場での散吟打毬楽その他、雅楽・声明公演があまり恵まれていなかった時代も、わたし自身が体験してきたから、かもしれません。。。
昭和41年に国立劇場は開場し、年2回の雅楽公演がスタート。
ところが、ものの三年も経たないうちに、回を追って観客が減少、「大劇場では収益率が18%という最適記録を作ってしまった」そうです(日本音楽叢書『雅楽』より、木戸敏郎さんの序文から)。昨今の、大劇場でさえ、チケットが即日完売してしまうような状況などは、考えられません。
打ち切りの危機。
雅楽のすばらしさを伝える、格好の場を得たかに見えた国立劇場の迷走を、木戸さんは冷静に分析され、苦心の末に、その危機を回避された訳ですが・・・(詳細は上掲の本をどうか、お読みください)。
たくさんの、すばらしい公演に関わっておられた楽師の先生方の苦慮も、いかばかりであったでしょうか。
「雅楽は、一般には、理解されない・・・」。
具体的な「興行」としての数値で、示されてしまったとき、どれだけ落胆されたことでしょう。。。
でも、そういった時代を経験された先生方だからこそ、その後、雅楽の普及に奔走され、正しい伝承と継承に、力を注いでくださったのだと思います。
わたしが国立劇場公演に出演させていただいていたのは、1980年代後半から90年代にかけて。2000年に入ってからは、確か舞楽法会で1回。。。
雅楽公演や舞楽法会、打ち切りにはならなかったのものの、大劇場の入りは7割から多くて8割、でしたでしょうか。
雅楽はまったく知名度が低く、わたし自身も知人を誘うのに、躊躇していました。。。
当時は、国立劇場が現代音楽作品の紹介や実験的な試みに力を入れており、わたしは逆に古典の演奏で出演させていただき、実際に生で両方の演奏を聴きながら、次第に現代作品への疑問を強く感じるようになりました。
わたしにとっては、斬新さと個性を打ち出そうとした現代作品よりも、古典のほうがより、斬新で、力強いものでしたから。
現代作品は、「知的」ではあっても、「何度も、その音を体験したい」という感じでは、なかったのです(少なくともわたしにとっては・・・)。
それなのに、どんなに古典の作品で、名演があったとしても、新聞・音楽専門誌の批評で採り上げられるのは、現代音楽(たとえ、少々、奇怪な作品であっても)。
古いもの、日本の伝統的なものが、あまり省みられなかった時代、でした。
「洋風」な創作の「ソース」がかかっていないと、召し上がっていただけない「玄米」のようなもの、だったのかもしれません。
そして、実際にお客様の側も、雅楽を、どう聴いてよいのか、どう反応したらよいのか、わからなかった時代、でした。
無理もないことです。
これまでほとんどの人が耳にしたことのない音、体験したことのない舞、でしたから。
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