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2009年6月16日 (火)

落蹲は祈りの舞だった・・・

忘れないうちに。6月13日、国立劇場第66回公演「舞楽」。
現役・OBの宮内庁式部職楽部楽師の先生方の演奏と舞と、南都楽所の笠置先生の三ノ鼓および二人の舞人による「落蹲」。

南都楽所さんとは、20年近く前だと思うが、東京楽所にてご一緒させていただいた記憶がある。落蹲もそのときに拝見させていただいているが、わたしはまだ右舞を始めたか始めないかのころで、細部の違いはよくわからなかった。

それでも楽部に伝承させれている右舞とあまりにも舞振が違うので、度肝を抜かれたことは、はっきりと覚えている。

今回の舞台で改めて拝見させていただけて、とても感激した。
笠置先生の三ノ鼓、南都からの舞人さんの風格のあるどっしりとした舞、すばらしかった。南都を背負ってこられた風格と自信が感じられた。そして、不思議と、あの奈良ののんびりとした風景とおおらかさが伝わってきた。やはり土地と歴史の記憶は、舞のなかにも、音にも入り込む。

公演のパンフレットの笠置先生の文章から。
「・・・(若宮おん祭りで)最後に舞われる「落蹲」の二人の舞人が舞台に何度となくひざまづくさまは、あたかも敬虔な祈りを捧げ、神前にぬかずくかのように思われる」
「(おん祭りでの演目が列挙され)・・・これらは明治維新まで興福寺が主催して行われていた時の供養舞と考えられる。仏教の行事や法要における舞楽の役割は大変大きいもので、中央の舞台は法要のための法筵(ほうえん)であり、諸芸能の舞台でもある。舞台の左右に特に大きい鼉太鼓を据えて、御旅所の結構を整えるのもその意味からであろう。神仏混淆の考え方の中で、興福寺としての最高の敬意をもって、舞楽法要の形で行われたものと思われる」
「・・・最後の三番は入調舞といわれる勝負舞で・・・(中略)・・・相撲は「抜頭」(左)と「落蹲」(右)である。それぞれ左と右の勝者を祝うものとして舞われた法楽で、今神道でいう神賑行事にあたるものである」

楽部で伝承されている納曾利(南都でいう落蹲)は、洗練のきわみを尽くした優雅で、凝った舞である。舞台を対角線方向につかったり、円状につかったり、と静かさのなかに華やかさがある。
「人」に見せるために、一歩作りこんだ舞のように思える。

南都の舞は、ゆったりとおおらかで、確かに「古形」の素朴さが感じられ、また、拍子のなかでの動作も、はっきりと楽部の舞とは異なり、時間感の違いも感じた。太古の祈りの形、だろうか。

韓国から伝わってきたときは、一体、どのような舞だったのだろう。
江戸時代に日本にやってこられた朝鮮通信使が、新井白石の接待によってこの舞を見ている。
「わが国では当の昔に滅びてしまった舞を、見ることができた」と、いたく感動されたそうであるが、「納曾利」とはいったいどのような意味の言葉だったのだろう。

返す返す、このような舞を伝承してこられた、有名無名のたくさんの楽人、舞人の、長い鎖に感銘を受ける。

今年は、落蹲、若宮の芝舞台で拝見できたら、と思う。12月17日夜。おん祭りは学生時代か卒業直後に一度行ったきりだ。

去年は「祈りの海へ・・・」の第1回目のレコーディングがあった日だ。そう思うと、それもちょっと感無量。

もう少し、大神流落蹲について、調べてみたいと思った。


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