古典から新しい響きへ (1)
実は、「笙の可能性を追求」とか「笙の音を世に広めたい」とか、むずかしいことをそれほど真剣に考えているわけではありません。
雅楽の古典の一番オーソドックスな演奏を続けてきましたが、あるとき高橋全さんというピアニストの音楽に出会いました。
奄美の島唄にピアノの伴奏をつけられたのですが、それは衝撃的でした。
(何?これ・・・?)想像を絶するような音の世界。合うはずもないおばあさんの泥臭い島唄の声に、透明なピアノの音がよりそっていました・・・
気がついたら、涙があふれていました。
聴き始めて、わずか数秒のこと。圧巻でした。
こんなことができるなんて。
唄っていらしたのは、朝崎郁恵さんという奄美の島唄の大御所です。
朝崎さんの唄の透明な部分、神秘的な部分に、ピアノの音がきらきらと光を当てているようでした。島唄の、魂の部分がピアノによって、「今の時代」を呼吸しているような、そんな響き。
暖かい、大地に根ざした古い古い唄が、透明な、現代の光のなかに溶けていく・・・
笙の、中音域、高音域の、透き通るような音、しみわたるような音が大好きです。
また、複数の演奏者の音が偶発的に重なることによって発生するうねりのような音とか。学生時代には、現代音楽もかなり聴きました。 下手な「チャンス・オペレーション」や知的に構築されすぎて、固まってしまった無調の音楽などより、はるかに面白い。そういう響きも好きですが、何か「生命の生き生きとした感じ」とは、違うもののように思います。
きらきらと光るような笙の中、高音域の音とピアノの音を重ねてみたい。
でも「芸大和声」は一通り学んだものの、作曲の経験はまったくありませんでした。
そんなわたしが、高橋さんの音をきっかけに、手探りで曲を作り始めたのです。耳が変わることで、明らかに世界が変わり始めました。
2年ほど前のことでした。
多重録音の方法もわからず、まずはある程度の音質で録音したものを、スピーカーから流しつつ、それを更に録音するという、おそろしくも原始的な方法からスタート。
大学時代、音響学やシンセサイザーの基礎的なことを勉強する授業は履修していたので、時代遅れながら原理は把握していました。坂本龍一さんのラジオ番組で、昔、実際にどうやって音を作っていくのか、実際にトラックを重ねていく方法を番組のなかでデモンストレーションしてくださったことがあり、そういった方法を思い出しながら。
自分でも、なぜこんなことを始めたのか、まったくわかりませんでした。一体、わたしはどうしてしまったんだろう、なぜこんなことをしているんだろう・・・
重たいパソコンを担いで、広いスペースと大きなスピーカーがある場所を借りては、何度も音を録音し、PCで即CD-ROMに落とし、スピーカーで流してみて、さらにそこに音を重ねて吹いてみる。
いいのか悪いのか、わかりませんでした。でも自分で吹いていると、なんてきれいなんだろう、なんて繊細で優しい音がでるんだろう、と思えることが何度もありました。
ひとつ作ると先が見えてきて、また次がやりたくなる。
こんな変な曲で、いいのかな?こんなのでいいのかな?その繰り返し。
でも、歌うように笙が吹ける、これはとても楽しい。
笙の真骨頂である、ピタゴラス音律による5度や4度の純正な響きを、思いっきり楽しむことができる。そしてそれは、わたしの大好きなドビュッシーやラベルの音楽の響きにも通じるものがありました。
古典の笙の世界では、篳篥、竜笛あっての笙です。相手をいかに活かすか、自分を活かしながら、篳篥、竜笛が吹きやすいように吹くには、どうしたらよいのか。
自分を主張すると、途端に「楽」(がく)が下品になってしまう。古典の雅楽は抑制された美しさ、でもあるのかもしれません。芸を誇ったり、技を見せ付けるようなことは、雅楽のなかではありえません。
そういった感覚とはまったく別の次元で、笙という楽器の個性を楽しみながら、音楽ができる。これは今まで体験したことのない世界でした。
「可能性を追求して、こういった音楽ができた」というよりは「楽しい、心地よい音を本能的に追い求めているうちに、こういった音楽や作品ができた、それが可能性の追求につながっていった」というのが本当のように思います。
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