2012年5月11日 (金)

合理的でないことも、

今の、現代の感覚で、どう考えても合理的でない、と思えるようなこともにも、

10年続けてみると、わかってくる理由があります。

やっぱり、100年続いていること、1000年続いていることには、それなりの理由があったりします。

「分析」による理解の浅さをつくづく感じます。

「体験」「会得」による理解の深さを感じます。

楽師の先生のご指導のなかには、一瞬「ぽかん」とするようなご指導内容もあります。
そのときには意味が分からない場合も、多々ありますが、10年後に「はっ」となることもあります。

先生方の背後には、約1000年分のメモリーとデータの集積、そしてバックアップがあるのです。。。

と、書いたら、今の人たちにはわかりやすいかな(笑)。

自分でも笙の指導をしながら、時々、「そこは、説明できない部分だから、とにかく、勉強を続けてみて」としか言えない部分が、雅楽にはたくさんあります。。。

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2012年4月 6日 (金)

東大寺本坊襖絵一般公開および天皇殿特別拝観

すばらしかったです。

多分、わたしが奈良に引っ越してくる遠因となった、東大寺光明皇后1250年御遠忌。
東京からかけつけたのですが、こんな大法要はなかなか拝見できるものではない、という規模の大きな法要、そしてそのなかでご奉納される舞楽の数々。
大仏殿の上から、ゆっくりと降り注ぐ散華(これも、すごかった!)。
ああ、すごい体験をしてしまった。。。という思いは、なかなか抜けませんでした。

そのときに、ご奉納されたという襖絵40面。
駆け足で、拝見してきました。

1度、確か日本橋高島屋にも、きていたと思いますが、今回、実際の「本坊」のなかで拝見できてよかったです。ポスターやチラシで拝見すると、やや色彩が強くも感じられる絵のひとつひとつが、落ち着いた本坊の襖絵としてはめ込まれると、輝かしさを増しながらも、色が「きつい」と感じられません。

小泉画伯は、80歳のときに東大寺からご依頼を受けて、5年がかりで完成させたのだとか。

自分を捨てて、無にならないとこういう仕事はできないーーと、どの絵にもお名前を残さなかった、小泉淳作画伯。×山○○さんとは、エラい違い、あわわ( ̄ー ̄)

きっと「画伯」なんていう呼称さえもご本人は、嫌がられたんだろうな。。。

そういえば、チラシには、、、
まさに小泉淳作・個展のような一般公開なのに、お名前は、タイトルその他のところにまったく出ていません。横の小さいフォントの解説文にのみ、慎ましやかに、そのお名前が。

ご本人のご遺志なのでしょう。

再現された御礼服も展示されていましたが、むしろ平面の絵のなかの聖武天皇、光明皇后のほうに、実在感を感じました。

すっと絵から抜け出て、こちらのほうへ歩いていらっしゃるかのような。

お二人が耳にされた当時の雅楽は、一体、どのようなものだったのか。。。

遠い時間のかなたに消えてしまった音楽と舞。

今の雅楽のなかにも、そんな「夢のかけら」が残っているように思います。

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2011年6月 6日 (月)

伝統は

刻々と変わっていく時代のなかで 柔軟に対応していくこと

伝統とは、決して後ろを振り返らないこと。。。とは忠麿先生のお言葉

おもしろいでしょう 

革新的なことを率先して試し、合わないことからはすごい勢いで撤退した先生でした

常に、ポジティブな行動の人

伝統も、結局は未来を「想像」して「創造」することだと思います

そして自分に対する誇りを失わず、他を尊重して礼節をもって接すること

日本の伝統には特に大事なことだと思います。。。


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2011年3月 2日 (水)

恋しい・・・

東大寺修二会。

昨日から本行が始まっていますね。
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie1.html

伊藤の、これはほとんど「病気」です(笑)。

上七日のうちの一日、聴聞に伺う予定ですが、予定表をみていたら、下七日もどこかで行きたくなってきました。

学生時代にまず、芸大の奈良の宿舎に宿泊し、1日から14日まで、ほぼ全部の行を観てしまったのが始まりで。。。

終生続く、「病い」かと思われます。

今年は修二会も1260回目だそうです。

わたしが通うのは、通算で確か13回から14回目だったと思うので、100分の1回ぐらいは制覇した?(笑)。 
でも、雅楽と、ほぼ同じくらいの歴史。
すごいことです。
雅楽の伝承は、結構、とぎれとぎれになっているジャンルもありますから。
(催馬楽しかり、御神楽、東遊しかり、、、)

世界の平和を祈るため、結界に結界を重ね、神々を勧請する行。
聴聞しているだけでも、とても深い気持ちになっていきます。

楽しみ、です。。。



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2011年3月 1日 (火)

国立劇場 蘇合香(3) なぜ音響にこだわるのか?

なぜ音響に関して、こうもこだわるのかといいますと。。。

ホールでの雅楽の聴こえ方によって、おそらく楽器の演奏法や、楽器の製作に対するスタンスそのものが、今後、変わってきてしまうだろうから、、、です。。。

笙の音本来の音、というものがあります。
楽部の笙は、弱い、という人がいらっしゃいますが、笙本来の音、と思います。
(実際のところ、ぜんぜん弱くないです)。

ピアノという楽器も、ここ2世紀ほどで、ひたすら大音量化をたどって来た楽器です。
ショパンが愛用していたピアノでは、プレイエル社のピアノが有名で、貴族のサロンで、優雅かつ繊細な音を奏でていました。

ショパンと同時代の作曲家・ピアニストでフランツ・リストがいますが、リストはエラール社のピアノを愛用していたようです。「超絶技巧」をコンサートホールで派手に披露するタイプのリストの曲には、大音量がでて、反応がよく、軽く鳴るピアノがぴったりだったようです。

その後、コンサートホールが巨大化するにつれて、ピアノもさらに大型化。

雅楽を始め、和楽器類も、今、同じ路を辿ろうとしているように思えます。

笙の音も、ただただ「音量が出ればいい」という観点から楽器を作ろうとする動きもあるようです。でも、音量や反応の良さで、失われていく性質があるのです。。。

例えば、煤竹、というのは枯れきった、いわば「古材」です。
そして枯れきった素材にしか出せない、柔らかい、優しい音がします。
煮竹は割れやすい、という欠点がありますが、煮竹でもいい音がしている楽器は、あります。ともに合竹の音が柔らかく、まとまって聴こえます。

黒檀の笙、というものがあります。
黒檀で、竹の部分をまねて細工をして、組んである楽器です。
洋楽器とのコラボレーションなどでは非常にいいと思いますが、古典では、やはり異質な音として響くと思います。

「耳」はわがままです。
今回の公演で、おそらく「笙が弱い」と感じた人は多いと思います。ですがそれは、前の記事に書いた通り、ホールの音響によることが大きいのです。

そういった要求に答えるべく、笙も大音量で演奏しよう、と、つい頑張ってしまいがちですが。。。

多忠麿先生にも「うんじゃ、うんじゃ(笙の息の張り方)ばかりいう笙は、よろしくない」というご注意を受けたことがあり、忠輝先生は、忠麿先生以上に、息の張りに関しては、ご注意が細かいです。。。

笙の製作者にもそういったことが(大音量化が)求められていくかもしれませんが。。。

PA(音響)の技術によって、そういったことが(繊細な古典の音色を保ちながら、合奏での笙が、沈まないように)、カバーできると思うのです。。。


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国立劇場 蘇合香(2) 音響

以前の散吟打毬楽の公演のときにも書きましたが、大劇場は音響的にはかなり辛いところがあります。

わたしは1階の6列目でした。
大体舞楽のときには2階席を取ることも多いのですが。

このあたりは比較的、生に近い音が聞けていたように思います(はて、そういえば、2階のスピーカーの位置は?)。

舞楽の場合、もちろん楽部でもそうですが、舞人の後方に管方がならぶため、余計に音が引っ込んでしまいます。
さらに、国立の大劇場の場合、天上が高いにも関わらず、三方向を布で囲われてしまうため、笙にとっては非常に不利な状況がそろってしまうのです。
あの、天上のほうの布ぐらい、せめて外せないものかと。

もちろん、篳篥、竜笛も、同様の環境にいるため、同じように不利、ですが、笙の音質は、やはり反響のよい場所で活かされます。

「散吟打毬楽」の公演のときは、小劇場でした。
岩波滋先生の笙がすばらしかった、と書きましたが、これが大劇場でしたら、そのすばらしさが半減されていたのでは、と思います。

「雅楽はもともと、屋外で演るものでしょう?」というご意見もあるかと思いますが、完全なオープンスペースで、しかも神社・仏閣などの環境下で演奏され、舞われるのとでは、「空気感」「雰囲気」が圧倒的に違います。
むしろ、拡散し、広がっていく伸びやかな音に魅力が感じられ、細かい点は気にならなくなります。

劇場でやるからには、音の繊細さや、演奏者の音色の違い、演奏の巧みさ、などがきれいに聴こえるように、そろそろ音響の配慮がなされてもいいのではないでしょうか。

それに、雅楽は屋外だけでなく、昔の殿上人の優雅な遊びとして、室内でも演奏されていました。練達の士が集まっての合奏会なども催されていたようでしたから、音の聴き合いなどは、結構細かいところまで、気にされていたと思います。

最も、PAは非常に難しいと思います。
大太皷のような突発的に音量が上がる楽器と、笙のような細やかな音量の楽器があるのですから。

昔、楽部がサントリーホールで毎年公演を行っていたとき、忠麿先生が、ホール側が行った録音のカセットテープを分けてくださいました。
第1回目の雅楽公演の録音は、第1部管絃と第2部舞楽、で、考えられないくらい、録音の音量レベルに差がありました。

どうやら、大太皷の最大音量が、録音レベルのピークとなるようにして、第2部を録ったようでした。
音割れを防いでのことだったのでしょうが。。。

かたや、昨年の平城京遷都1300年の楽部公演の際は、片側の大太皷だけが音が異常なくらいに、割れていました。
「音量」の問題ではなく、おそらく、マイクが何かに接触していたのだと思います。

大太皷の音が響くたびに、不快な音が流れました。
あれは、演奏中でもPAの人が走っていって、直すべきだったと今でも思っています。

(次に続く)


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2011年1月15日 (土)

「聖武天皇 責めはわれ一人にあり」

東大寺長老 の森本公誠師のご著書。446ページもの大著です。
本日、揮毫をいただきました。

時を隔てた遠い存在の聖武天皇像ではなく、政治家として、また、人として苦慮される聖武天皇のお声とお姿が伝わってくるような、大変な労作です。

そして、情熱的な仏道の求道者でもあられたようです。

天変地異のため、飢饉が続き、あげくの果てに大地震。

国民が喘ぎ、苦しむなか、その自然災害が起ったのも、自分のせい、だと。

「責めはわれ一人にあり」と。
今風に言うと、「ワンネス(すべては、ひとつ)」を体現していた政治家。
政治家であり、仏教者であり、また芸術全般に深い理解のあるパトロンであり。。。

当然、「雅楽」の話もでてきます。
いえいえ、聖武天皇もまた、雅楽の世界の、大きな「立役者」であったと思うのですが。
雅楽というと、平安時代、と思っていらっしゃるかたが多いと思いますが、「太い幹」の部分が作られたのは、聖武天皇や光明皇后の時代であったように感じます。

こういうときは、ほんとうに雅楽に関わっていて、よかったと思います。

資料から、映像や、音が鮮やかに浮かびあがってきます(もちろん、現在の雅楽とはまったく異なっていると思いますが)。

(こちらのご本は、当ブログの左列の BOOKSの項目で、アマゾンとリンクさせておきましたので、御覧ください。ただ、現在すでに品切れらしい?)。

1月28日の雅楽のお話会でも、少し、内容に触れさせていただくことができると思います。


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2010年12月19日 (日)

12月19日は、

多忠麿先生のご命日です。

もう16年ほどになりますが、今でもこの時期はしんみりします。

先生が亡くなられたその日、わたしはちょうど雅楽の仲間と、合奏勉強会の発会式を行って、全員で青海波を吹いていました。

盤渉調でした。
先生の「お見送り」になったのでしょうか。
下手な演奏でしたが、先生のお耳に届いていたのでしょうか。

翌日に訃報を受け、思わず、受話器をとり落とし、立ち上がれなくなりました。
数ヶ月前から、なんとなく覚悟はしていたものの、やはり最初は信じられませんでした。

弔問に伺った日の朝は、やけに天気がよかったのを覚えています。

白々と明るい朝、白い花を持って、真っ赤な目をして、先生のご自宅に伺いました。

わたしが伺ったときに、ちょうど鶴岡八幡宮の若い神職さんが弔問にいらしていました。
先生はとても動けるようなお体ではなかったのに、車椅子で、亡くなられる日の2日前、鶴岡の御神楽のために、最後のご指導にいらしていたのだそうです。

その神職さんは、おそらく人長の舞(もっとも責務が重く、先生が一対一でご指導されていた舞)を舞われたかただったのだと思います。

「まさか、、、まさか、こんなことになるなんて」と涙声で、肩を落として奥様とお話されていました。

多家は、代々、御神楽を伝承されてきたお家、です。
笙のお家でもありますが、笙を専任とされるようになったのは、歴史的にはずっとあとのこと、だそうです(ずっとあと、、、と言っても、軽く、数百年の歴史がありますが)。

今にして思えば、最後に製作されたCDも御神楽のCDでしたから、累代の家に生まれた人間としての責務を最後の最後まで、全うしていかれたのだと思います。

華やかで、それこそ火花のような人、でした。

今でも、、、幽霊でもお化けでも、なんでもいいから、もう一度、先生にお会いしたいと、切に思います。。。


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2010年12月16日 (木)

鶴岡八幡宮御神楽

今日は鶴岡八幡宮の御神楽の日(御鎮座記念祭)。

八幡宮の神職さんたちによる御神楽です。

「人長」(にんじょう、ひとのおさ)の舞を舞われるかたは、1年ほど前に指名され、1年間はプレッシャーのうちに過ごされるそうです。

重要なお役目ですから、、、

今年はわたしは伺えそうにありません。

夕方5時、陽が沈み始めたころから始まり、あたりの空気が冴え渡ってくるなか、粛々と執り行われる巫女舞と御神楽は、非常に趣きがあります。

お近くのかたは、どうか1度、御覧になってみてください。。。


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2010年11月27日 (土)

CD「日本古代歌謡の世界」 ライナーノートから(4)

(続き)

とくに、宮中の秘楽として、神楽歌の分野は「神聖にして侵すべからず」とタブー視されていた。この分野も今回、歌曲のみならずその様式までも収録できたことは一大快挙といえる。収録にあたって演奏者は、現代の超一流の技能をもった人のみにしぼった。
そして、音程、音色、音質にとくに気をくばり、その上で古代歌謡独特の無拍節の曲の姿と間を最重要視し、一字一句一音もゆるがせにせず、明確で格調の高い歌を追求した。

        −「日本古代歌謡の世界」ライナーノートから  「総論」(多忠麿)


このCDは東京楽所にしては珍しく、演奏者は全員、宮内庁式部職楽部の楽師の先生で固められている。
このCDは多先生の遺作ともいえるCD。
平成4年の12月だったか、翌平成5年の1月だったか、先生は手術を受けられた。
胃がんだった。
療養する間もなく、先生はご公務に復帰され、さらにこのCDの製作に取りかかられた。

多家は元々、御神楽を業とする家。

先生はがんの告知は受けていなかったものの、残された時間が少ないことを本能的に、ご存知だったのだろう。
「おとなしく療養」などという言葉は似合わない先生だった(ただ、そうしてくだされば、どれだけ周りの人間も、気が休まったことだろう!)。

このCDには、特に先生の厳しい面が現れているような気がする。
また、「宮中の秘楽」を収録したCDに民間からの演奏者をひとりもいれなかったことは、「楽家」の人間として生涯を生ききった、先生の強い矜持と誇りを感じる。

また、出演者の楽師の先生方への細やかな気配りと(いかにも忠麿先生らしい)、信頼感も感じられる。

あれだけ、いつも高い境地を目指しておられながら、「人に委ねることができる」人、だった。

「責任は全部、僕がとるから」

が、口癖のような先生だった。


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