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2009年4月30日 (木)

天鼓自鳴

すばらしいことが起こったときに、

天の鼓は鳴るという

天界の鼓がいっせいに

自ら鳴り響くという

仏教の用語ですが、そんな気分!

28日にCDが届きました!

Img_1994 

加藤龍勇さんのイラスト入り!

Img_1995 

竽を吹く天女のようなイメージして描いていただきました。
かわいいでしょう?

雅楽というとむずかしい、硬い、と思われるかもしれませんが、今回は笙の音で構成した柔らかい、詩のようなCDです。

自分の子供のように思えますconfident

スピリチュアルカウンセラーでいらして、そして名バリトンとしても大活躍中の、江原啓之さんの、暖かくて優しい朗読とともに、是非、ご拝聴ください。

ご購入はこちらで。

http://www.napimusic.com/inori.html

あるいはこちらでも。

http://musashino.gagaku.net/

収益の一部はホームレスだったかたがたのためのホスピス「きぼうのいえ」に寄付されます。

江原啓之さんも、「きぼうのいえ」のために、まったくのボランティアで参加してくださっています。そのほか、たくさんのみなさまの暖かな支援を得て、ようやく完成したCDです!

改めてここに御礼申し上げます。。。

どうぞよろしくお願いいたします!

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2009年4月28日 (火)

日常の時間から離れて-舞

例えば自分の両手をゆっくり、頭の上に持っていって、平泳ぎするようゆっくりゆっくり、腕をおろしてきて足の両脇につける。

できるだけゆっくり、なめらかな動作で。
10秒とかそれ以上かけて。

たったそれだけのことで、日常の時間の流れが変わってしまいます。
片手だけでもいいです。

ゆったりと、できるだけ、きれいに。

できるだけ、優雅に。

ちょっと繰り返してみるだけで、感覚が変わってきます。

こんな動作が雅楽の舞(平舞)の基本動作に入っています。
おおらかで、優雅な動作。背筋をぴんと伸ばして・・・

以前、キングレコードでのレコーディングで、万葉集の朗読に雅楽の音をつける、というものがありました。

楽筝のソロのレコーディングが始まったとき、キングのディレクターさんが、「・・・ああ、いいですね。昔は、時間の流れが違ったんですね」と感慨深そうにつぶやかれました。

本当にそうなんでしょうか?
今と昔では、時間の流れが変わってしまったのでしょうか?

あわただしい時間を生きるようになったのは、わたしたちの感性が変わってしまったから・・・雅楽の時間感を楽しめるようになってから、時間の流れや時代の流れに対する感覚が、はっきりと変わったように思います。

明日は明治神宮で楽友会の舞楽奉納があります。11時から。
振鉾、万歳楽、八仙。

どなたでも、無料でご覧になれます。

いにしえの、おおらかな楽の音と舞を最高峰の演奏で楽しむことができます。

日常のあわただしい時間から解放されたいかたは、是非。

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2009年4月27日 (月)

いよいよ、明日です。

明日28日、CDが納品されますnote

1st recordingの日が昨年の12月17日、府中の森芸術劇場ウィーンホール。2nd recordingは1月26日、カルラホール。

その後の編集作業、そしてジャケットの文章、校正作業でわたしが大幅に足を引っ張りましたpunch。実は書きたいことが多すぎて、ジャケットになかなか納まらなかったのですsad 高橋全さん、ジャケットデザインの渡邊chontoさんにご迷惑をおかけしながら、なんとか完成に至ることができました。辛抱強いお二人のお力は偉大です・・・heart01

何しろ、何をするにも人の3倍は時間がかかる、わたしのやることですから。

改めておふたりに感謝申し上げます。ありがとうございました。

2回目の録音日からほぼ、3ヶ月・・・
本当に、大変長らくお待たせいたしました。

ご予約をいただいている皆様のお手元には、NAPI MUSICから順次お手元に発送されます。しばし、お待ちください。

ご購入はこちら

http://www.napimusic.com/inori.html

よろしくお願いいたします。

東京都内の雅楽器店「武蔵野楽器」でもお取り扱いいただいており、店頭販売もございます。お手にとってご覧になりたい方は、是非そちらへ。

http://musashino.gagaku.net/


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笙の不思議(1)・・・孔雀石

笙は、17本の竹がお椀のような黒い木質部に直立しています。

うち、15本にリードがついていて、2本は飾り。大昔に大陸から伝来したときにはリードがついていましたが、日本人の好みに合わない音だったようで、はずしてしまったようです。

このリードに、孔雀石(マラカイト)という、きれいなグリーンの石の粉を塗ります。日本画の絵の具の原料になるくらい、きれいな色の石の粉ですが、この石の粉も、調律をする際に自分ですりおろします。するための器は「さわり」という金属でできたもの。実は、これは笙のリードと同じ材質なんです。

墨をするのと同じような感覚で、金属の器で何時間もかけて、すりすりすりすり・・・していくのです。まるで錬金術師にでもなった気分?

それにしても、いったい誰がこの「孔雀石」の粉をこの楽器のリードに塗るなどと、考えたのでしょう。役割としては、まずはリードの切り込み部分を埋めることで、息がそこから漏れてしまうのをふせぐこと。そして、さらに大切なのは、調湿効果。この石の粉は呼吸してくれます。冷たい金属のリードに息を吹きかけると、あっという間に結露します。

孔雀石を塗ったリードが冷えているときに(笙は、演奏前に、必ず楽器を暖めます)、はあっと息を吹き欠けると、さっと孔雀石が曇り、色が変わります。そしてしばらくすると、さあっと乾いてきます。湿気を吐き出してくれる。

でも、残念なことにこの調湿効果、ある程度の期間が過ぎると落ちてくるようです。わたしは「お取替えの時期」と呼んでいます(笑)。呼吸をするのがへたくそになってくる。そうなってくると今度は笙のピッチが狂いやすくなったり、吹いていてリードが重くなり、やたら演奏するのが苦しい楽器となります。

そうすると、笙の調律でも「洗い替え」と呼ばれる作業をしなければなりません。15枚のリードすべての孔雀石を筆やさまざまな道具で丹念に落とし、表と裏を塗りなおすのです。

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2009年4月26日 (日)

古典から新しい響きへ (1)

実は、「笙の可能性を追求」とか「笙の音を世に広めたい」とか、むずかしいことをそれほど真剣に考えているわけではありません。

雅楽の古典の一番オーソドックスな演奏を続けてきましたが、あるとき高橋全さんというピアニストの音楽に出会いました。
奄美の島唄にピアノの伴奏をつけられたのですが、それは衝撃的でした。

(何?これ・・・?)想像を絶するような音の世界。合うはずもないおばあさんの泥臭い島唄の声に、透明なピアノの音がよりそっていました・・・

気がついたら、涙があふれていました。
聴き始めて、わずか数秒のこと。圧巻でした。

こんなことができるなんて。

唄っていらしたのは、朝崎郁恵さんという奄美の島唄の大御所です。
朝崎さんの唄の透明な部分、神秘的な部分に、ピアノの音がきらきらと光を当てているようでした。島唄の、魂の部分がピアノによって、「今の時代」を呼吸しているような、そんな響き。

暖かい、大地に根ざした古い古い唄が、透明な、現代の光のなかに溶けていく・・・

笙の、中音域、高音域の、透き通るような音、しみわたるような音が大好きです。

また、複数の演奏者の音が偶発的に重なることによって発生するうねりのような音とか。学生時代には、現代音楽もかなり聴きました。

下手な「チャンス・オペレーション」や知的に構築されすぎて、固まってしまった無調の音楽などより、はるかに面白い。そういう響きも好きですが、何か「生命の生き生きとした感じ」とは、違うもののように思います。

きらきらと光るような笙の中、高音域の音とピアノの音を重ねてみたい。
でも「芸大和声」は一通り学んだものの、作曲の経験はまったくありませんでした。

そんなわたしが、高橋さんの音をきっかけに、手探りで曲を作り始めたのです。耳が変わることで、明らかに世界が変わり始めました。

2年ほど前のことでした。

多重録音の方法もわからず、まずはある程度の音質で録音したものを、スピーカーから流しつつ、それを更に録音するという、おそろしくも原始的な方法からスタート。

大学時代、音響学やシンセサイザーの基礎的なことを勉強する授業は履修していたので、時代遅れながら原理は把握していました。坂本龍一さんのラジオ番組で、昔、実際にどうやって音を作っていくのか、実際にトラックを重ねていく方法を番組のなかでデモンストレーションしてくださったことがあり、そういった方法を思い出しながら。

自分でも、なぜこんなことを始めたのか、まったくわかりませんでした。一体、わたしはどうしてしまったんだろう、なぜこんなことをしているんだろう・・・

重たいパソコンを担いで、広いスペースと大きなスピーカーがある場所を借りては、何度も音を録音し、PCで即CD-ROMに落とし、スピーカーで流してみて、さらにそこに音を重ねて吹いてみる。

いいのか悪いのか、わかりませんでした。でも自分で吹いていると、なんてきれいなんだろう、なんて繊細で優しい音がでるんだろう、と思えることが何度もありました。

ひとつ作ると先が見えてきて、また次がやりたくなる。

こんな変な曲で、いいのかな?こんなのでいいのかな?その繰り返し。

でも、歌うように笙が吹ける、これはとても楽しい。

笙の真骨頂である、ピタゴラス音律による5度や4度の純正な響きを、思いっきり楽しむことができる。そしてそれは、わたしの大好きなドビュッシーやラベルの音楽の響きにも通じるものがありました。

古典の笙の世界では、篳篥、竜笛あっての笙です。相手をいかに活かすか、自分を活かしながら、篳篥、竜笛が吹きやすいように吹くには、どうしたらよいのか。

自分を主張すると、途端に「楽」(がく)が下品になってしまう。古典の雅楽は抑制された美しさ、でもあるのかもしれません。芸を誇ったり、技を見せ付けるようなことは、雅楽のなかではありえません。

そういった感覚とはまったく別の次元で、笙という楽器の個性を楽しみながら、音楽ができる。これは今まで体験したことのない世界でした。

「可能性を追求して、こういった音楽ができた」というよりは「楽しい、心地よい音を本能的に追い求めているうちに、こういった音楽や作品ができた、それが可能性の追求につながっていった」というのが本当のように思います。

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